クロケット&ジョーンズの昔の職人を見て感じること~働き方改革~

今やなんでも機械化が進んでいる世の中…。

テクノロジーの進歩はいいですが、作る人の気迫というものを感じられるモノを目にすることは少なくなっているような気がしてなりません。

これは1911年に作られたクロケット&ジョーンズの靴のアーカイブですが、明らかに現代の靴を遥かに凌ぐ靴の作り込みとなっています。

どうしてここまで作り込みが可能だったのでしょうか。

色々な説はありますが…

今なお根強く残るといわれるイギリスの階級制社会は、当時は今以上に強かったことでしょう。靴づくりをしているブルーワーカーと呼ばれる労働階級の人は、それは社会的地位は低く見られていたことでしょう。

そして働いていた人たちは、日夜靴づくりだけに没頭していた…。

それ以外の働き方も知らなかったでしょうし、今と違って新しい職業への道や、気を紛らわせるための娯楽なんかも現代とは違い、圧倒的に少なかったはずです。

そんな彼らが作る靴は自然と完成度が高いものであったはずです。

1900年代のクロケット&ジョーンズの工場内を収めた写真に写っている職人たちは誰一人笑っていません。

現代では靴の製造風景を写真に撮って、宣伝する靴メーカーは多いです。

もちろん現代の靴職人たちもニヤニヤしながら靴づくりをしている様子はありませんが、寡黙に取り組んでいるその姿そのものが、今と昔とでは大きく違うと感じます。何か意気込みが違うというか…。

鬼気迫るものがある表情をみんなしています。

中には明らかに睨んでいる人もいますね。

写真を撮る人=その人とは身分の違う人だったことでしょうから、それに対するやっかみとかジェラシーとか、そういった想いがこめられているのでしょうか?

これ以外にもクロケット&ジョーンズの工場内を収めた古い写真がインスタグラムに投稿されているのですが、これもまた誰一人笑っているものはありません。殺伐とした雰囲気が漂う写真です。

私はこう推察します。

彼らからしたら、靴を作ること以外に生きていく術はなかったのです。

労働階級の家に生まれたら、ほぼ確実にそこから逃れることはできなかった。

これをポジティブに考えると、ずっと今の時代よりも情報が少なくても生きていくができて、シンプルだったとも考えることができます。

何が幸せだ、何が俺に向いている、何が俺のしたいことだ、なんてことを考えるまでもなく、靴を作ることが「当たり前」であって、日夜ただひたすらに靴を作り続ける…。それが人生そのものだった。

そんな現場であれば工場内で笑っている人なんていないのも当然かもしれません。

現代的観点からしたら、ブラック企業の極みであって、そんなことをしてまで作られた製品は手にしたくないと感じる人もいるかもしれません。

しかし、この笑顔がない人達が作り上げる靴こそ、現代ではビスポークの職人ですら作りえない圧倒的品質を持っていたのです。

完全手製の靴を作る現代の職人ですら、たどり着けない作り込みの境地。

これはクロケット&ジョーンズに限らず、おそらくどこのメーカーでも「当たり前」日常上の風景として、現代では考えられないような品質の靴を作ることができていたのでしょう。

靴を作ることが全てだった人の靴…。

今、日本では「働き方改革」が色々なところで騒がれています。仕事をすることが人生の目的ではない、と。

人生の価値観が1900年代初頭と大きく変わったために、このような言葉も出てくるのでしょう。

しかし、写真のクロケット&ジョーンズのように、滅私、人生のほとんど全てを仕事に捧げる人間がいて、誰をも唸らせる美しく気迫のこもったモノができあがるというのも、また何とも皮肉なことだと感じます。

ちなみに私は全く働き方改革を否定するつもりもありませんし、むしろ労働環境は良くしなければいけないし、私自身働きづくめの人生はまっぴらごめんです。

しかし、それは気迫のこもったモノを作れなくなってしまうということと隣り合わせで、人間の退化のひとつなのかもしれません。

そんなことをふと考えてしまいました…。

なんだかまとまりがないですが。人間バランスをとるっていうことは難しいですねぇ。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

スポンサードリンク



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする