10月2日に驚きのニュースが入ってきました。アパレル業界にとっては激震だったかもしれません。
スポーツ庁がスニーカー通勤の推奨を始めたのです。
以下、ニュースの内容を抜粋…
スポーツ庁の鈴木大地長官は2日、働き盛りの20~40代の運動不足解消を目的に、スニーカーを履いて通勤することを呼び掛けるプロジェクトを始めると発表した。企業や自治体とも連携し、来年3月から1日8000歩のウオーキングを推奨する取り組みを実施。クールビズのように国民運動として定着させたい考えだ。
同庁は、週1回以上スポーツする成人の割合を2016年度の42.5%から21年度に65%程度に引き上げる目標を掲げている。特に実施率が3割程度にとどまる20~40代が、仕事が忙しくても気軽に始めやすいウオーキングに着目。医療費の削減にもつなげるという。
鈴木長官は、白いスニーカーを履き同日の定例記者会見に登場。
スニーカー通勤を!=運動不足解消で推奨-スポーツ庁 時事通信より
運動うんぬんよりも、クールビズのように、足元も楽したい、という風にしか聞こえないのですが、いったいどうなんでしょうか?
運動不足をスーツにスニーカーを推奨することによって解消は出来ないと思うのですが…。
運動不足が気になるなら、普通に家に帰ってからランニングでも勝手にしますよね。
何よりこうやって写真を見ても、不快でチグハグな印象を受けます。
鈴木長官ダサいです。
この原因はいったい何なのでしょうか?
今回はこの足元の変化を促す話と、このチグハグな印象受ける原因、これからの服装についての話、そして私の個人的な意見を、服装の歴史から紐解いてお話していきたいと思います。
目次
スーツの歴史から考えてみよう
スーツの源流は15、16世紀ヨーロッパのフロックコートだと言われています。
これがフロックコート。ごくごくまれに結婚式でお洒落なおじいさんなんかが着ているのを見れるかもしれません。
農民の農作業着として、また軍人の軍服や貴族のコートとして、機能は全く異なるものの、幅広く用いられてきた当時スタンダードな形でした。
18世紀から19世紀になると、朝の散歩用に歩きやすく前裾を大胆にカットしたモーニングコートや、乗馬に適した形に改良された燕尾服(テールコート)がイギリスで登場します。
モーニングコートの図
これらは貴族が朝の日課である乗馬の後、そのまま宮廷に上がれるようにとのことから礼服化し、現在でも正礼服としてその役割を果たしています。
現在燕尾服といえば皇族の結婚式や舞踏会、クラシックコンサートや社交ダンス大会、勲章授与式典など、大変格調高い特別な場所でのみ見られるもので、ほとんど一般の男性が袖を通すことはないでしょう。
一生着る事も無いまま終わることも、もはや珍しいことではないのかも。
このようにフロックコートもモーニングも燕尾服も、これらは主に、屋外着用を目的としたものでした。
やがて、屋内でくつろげるような室内着として、すその部分をカットした、現在のジャケットスタイルが登場します。これはスモーキングジャケットと呼ばれ、タキシードの源流となったのです。
これは19世紀の紳士の間では喫煙が流行していた。ご婦人方との会食の後で、紳士は男だけの会話と喫煙を楽しむためにスモーキングルームへ向かう。この当時、女性の喫煙はタブーとされていたからです。
その部屋で彼らは、煙草の臭いが燕尾服にうつるのはマナー違反になるという理由で、スモーキングジャケットに着替えました。着丈の短いスモーキングジャケットのデザインは、ラウンジスーツだけでなく、タキシードの元となったといわれています。
そして、タキシードをより簡素にしていったものが、現在のスーツへとなっていきます。
このスーツの原型はイギリスではラウンジ・スーツ(Lounge Suit)、アメリカではサック・スーツ(Sack Suit)と呼ばれ、当初は寝間着・部屋着、次いでレジャー用として用いられたのです。
寝間着ですよ、寝間着。
パジャマです。
今では考えられない驚きの扱いですが、こんな扱いをしていた、理由が言葉に表れています。
このラウンジスーツを、アメリカではサックスーツと呼びました。サックとはズダ袋のこと。ズダ袋とは、ダブダブして何でも入る袋のこと。ウエストをキツく絞ってラインを出した服とは違い、ストンと直線的に落ちた、まるでそのまますっぽり覆い被せたかのようなスーツ。
今日的に見れば、トラッドの源流ですが、当時はパジャマ代わりにされていた、ズタ袋スーツだったわけです。
スーツに興味がない人からすると驚きの歴史ですが、はっきりとした事実です。
※これがサックスーツ ずた袋の名がつけられる理由がわかるように、そのシルエットはとてもゆったりしています。でもエレガント。
このサックスーツですが、着丈が短くなった分機能性は向上し、19世紀末から20世紀の初頭にかけてアメリカのビジネスマンがビジネスウェアとして着用し始めました。
サックスーツをどこよりも早く、ミシン縫いで量産した既製スーツとして売りに出していたのが、かの有名な「ブルックス・ブラザーズ」です。
1901年にNo.1サックスーツとして、時代の流れに左右されず売られ続けました。
そして、1930年代には今日繋がるスーツスタイルが完成しました。
スーツの特徴は、共地の生地を使って、全体の統一感を出しているということ。
この特徴が非常に重要です。
同じジャケットスタイルで、ジャケットとパンツの素材を変えたスタイルがいわゆる「ジャケパン」です。ジャケパンは共地ではありませんが、ジャケットスタイルは「共地」が根底にあるというのを知っていないとおかしなことになります。
なぜならば、同じジャケットとパンツの素材感が合わないと全くおかしな印象を与えることとなってしまうことにつながるためです。
例を出すと、ウエイトがあって重厚感のあるジャケットに、真夏用のトロピカルウール素材の軽量なものを合わせると、ちぐはぐな格好になり、人前に出るのに相応しい格好になってしまいます。
重い素材なら重い素材、軽い素材なら軽い素材。そして夏用なら夏用、冬用なら冬用といいた感じで、素材を合わせることが大切です。
この統一感によって、スーツをはじめとするジャケパンスタイルに気品が生み出されるのです。
スーツはこの統一感から生み出される品の良さから、略礼装の意味が強い平服として使われるように世界中で広く一般に浸透していったのです。
長くなりましたが、スーツの歴史がお分かりいただけたのではないでしょうか?
服装は時代の流れと共に必ず変わる
このようにスーツの歴史を紐解くと、色々な事実がわかってきますね。
服装は時代の流れと共に変化していくこともよくわかります。
少しずつ、スーツにスニーカーがなぜすぐには受け入れいれられないのか?そして問題の根幹がどこにあるのか?が見え始めるのではないでしょうか。
そもそも今回のスニーカー推奨問題は、スーツにスニーカースタイルをクールビズと同じくらいの感覚で捉えているから、違和感があると思うのです。
そもそもクールビズは必然の流れだったと思います。
これもフロックコートがモーニングコートに、そしてスーツへと変化したのと本質は変わらないでしょう。
礼を失わないように、徐々に徐々に環境に合わせた服を人々が求めた、という話なのです。
今やクールビズはすっかり日本で定着したと言ってもいいでしょう。
地球温暖化が進んでいるとか、いや地球は氷河期に突入しているとか、難しい話は抜きにして、近年の春から秋にかけての気温は高くなり、とてもではありませんが、夏はジャケットを着て外を歩き回ることはできず、夏にジャケットを着ているのは現実的な話ではなくなっています。
夏にジャケットを着てネクタイを締めていたら、それは体調不良を起こしたり、スーツの劣化を早めたり、様々な問題を起こす可能性が現実的にあるために、クールビズは進んだのです。(このクールビズが広まったの良いことに、服装そのものに興味がなくなり10月末になってもノーネクタイでだらしない格好をしているのは、個人的に不愉快極まりないですが)
このクールビズの問題と、スーツにスニーカーの問題は同列で語れるのでしょうか?
同列には語れないと私は思います。スーツを着た状態で、運動を推奨しても意味がないのではないでしょうか。
そもそも、スーツにこの白のスニーカーは絶望的に合わないとは思いませんか?
多くの人が不自然に感じる、スーツにスニーカーのスタイルの問題を考えるには、スーツだけでなく、スニーカーの歴史にも目を向ける必要があると思います。
スニーカーの歴史は?
スーツが平服であるということがお分かりいただけたかと思います。では、スニーカーの歴史はどのようなものなのでしょうか?
スニーカーの元祖は1890年代にボートの競技用の靴として開発されたのが始まりとも言われています。
靴の構造としてはキャンバス素材にゴムの底を備えていましたが、まだこの頃はスニーカーとは呼ばれていませんでした。
このゴム底の靴は、1896年のアテネオリンピックの競技内で使用されたことから、世に広まったそうです。
スニーカーと呼ばれるようになるのは、1917年頃アメリカのUSラバー・カンパニーが、足音がしない「静かな靴」=忍び寄る靴=Sneakというキャッチフレーズをつけたところが最初だと言われています。
柔らかいゴム底を持ったスニーカーは、静かで音を立てずに歩くことができる、ということで、このキャッチフレーズをつけたのです。
その後、時は経って、1970年代にコンバースのオールスターがカジュアルシューズとして爆発的な人気を得て、広く一般に親しまれることとなったのです。
このようにスニーカーは、運動するためや、カジュアルシーンにおいて用いられてきたという歴史があることがよくわかります。
スニーカーがスーツに合わないのは、両者の源流に隔たりがあるから
スーツとスニーカー。
両者の歴史をたどると、なぜスーツにスニーカーが受け入れられないのか、その理由がわかります。
スーツは確かに大元をたどれば、決して貴族のためだけの礼装だけではなく、寝間着に使われていた時期などもありますが、
基本的には他人に礼を表す礼装としての役割を果たした服が源流にあるということがわかります。
では、一方スニーカーはというと、あくまで「運動」をするためであり、極めて一個人のためのものであるのです。
スニーカーに他人に礼を表す意味は全くないのです。
これです。これこそが違和感の原因です。
人に対して「礼」を表すスーツと「礼」を表していないスニーカーが、スタイルに合うはずもないのです。
そして、パッと見てちぐはぐな印象を受ける理由は、
人が「礼」を表していると感じる理由の根底にある、天然素材のウールによって作られた共地による統一感を、素材が人工的なスニーカーがその統一感を壊すから、ということに他なりません。
ファッションはスーツに限らず何でもそうですが、統一感を出すということが基本中の基本。とても大切なのです。
しかし、私は「スーツにスニーカー」を真っ向から反対するわけではありません。
今回のニュースのように、服装の歴史を全く踏まえていない極端な例がいけないと感じるだけです。
現代のスーツスタイルに合うスニーカーを開発していけばいいのではないでしょうか?
そして、そのような靴は私が語るまでもなく、すでに多くのメーカーから発表されています。
革靴とスニーカーが融合した靴がもっと広まるでしょう
革靴のようなスニーカーというと、多くの人がご存知でしょうが、あまりカッコいいデザインのものがないのが、悩みの種。
ここに挑戦している日本のブランドは、三陽山長やリーガルなど
パッと見た時は革靴のように見えますが…
底を見るとスニーカー!
これならまだスーツの統一感を崩さず、かつ歩行も快適。
こういう靴にクローズアップしてスポーツ庁も会見開けよ、って話ですよね。ほんと。
改めて考えたい革靴とその製法
なぜグッドイヤーウェルト製法やマッケイ製法といった古い製法の革靴が100年経った今でも、大手の老舗靴メーカーが作り続けているのか、その理由を改めて考えてみてください。
まずビジュアルの面で革靴は、スーツに欠かせない天然素材によって生み出される統一感が損ねません。
特に良質な革で作られた靴は美しい経年変化を出し、言葉では語りつくせない上品な雰囲気を醸し出します。
また、履けば履くほど足に馴染んでいくのは、天然素材の革でしか生み出せないものです。
耐久性も高く、底を交換しながら、長い年月足元を支えてくれるのです。
それに歩行も足にあった革靴は決して疲れやすいとは思いません。スニーカーは走ることに長けていますが、しっかりと足の形に合わせてソールが形成されている分、むしろ長時間の歩行は革靴の方が優れていると私は思います。
最後に私の意見
スーツって制服のようで、集団に組み込まれているような気がして嫌だ、とか堅苦しいという考えの人がいるでしょう。
そういう人は、ノマドワーカーを目指せばいいんじゃないでしょうか。というかもはやその時代は目前まで迫っています。
そもそも、このようにきちんとスーツの素材、靴のデザインや製法などその歴史を知っていれば、自分なりのスタイルは、スーツスタイルでもちゃんと打ち出せます。。
みんながみんなスニーカーに、楽なTシャツを着た格好でいたら、きっとそれ物凄く嫌な社会になってると思いますよ。だって、服装が礼を込めてないんだもん。
いくら服装は変わるといっても、人が人に礼を尽くす精神はどの時代でも必要不可欠な要素だと思います。
そもそもこんなおかしなスタイルに賛否両論が起きる、という話がおかしな話なのです。
きちんと服装の歴史を踏まえていれば、こんな格好をして、表舞台に立ち物議を醸すという事態に陥らないはずなんです。
ドン小西さんが週刊朝日でこんな意見を出されていましたが、要するにこういうことを言いたかったんではないかと思います。
しかし、それでも現実としては、問題になってしまった。
それは、スーツや革靴に面白みを感じない人が増えたためではないでしょうか。
増えた理由は仕事に面白みや生きがいを感じず、絶えず将来に不安感がある日本社会の問題があるからではないかと思います。
年収は600万ないと、妻子を養っていけない、というのをどこかのコラムで見ましたが、そんなに稼いでいる人がこの日本にどれだけいるのでしょうか?
多くの人が普通に夢見る結婚すら簡単に出来ない世の中。着飾る理由はどんどんなくなっていきます。
そんな今だからこそ、きちっとしたスーツを着て、足元をきちんとした靴で歩いていくことが大切なのではないでしょうか。
きちんとした身なりの本質というのは継承していきたいですね。
人に礼を尽くすことは、生きていく上では必要不可欠。
人は人と関わらずに生きていくことは出来ないのですから。
最後まで読んでいただきありがとうございます。